ご覧いただきありがとうございます。
当ブログの管理人 しん です。
自己紹介させていただきます。
相当長いので、お時間のない方は概略以降は読み飛ばして下さい。
先が気になる方も暇な時に気が滅入らない程度に閲覧してください。
※後半に行くにつれ凄惨さが増していきますのでご注意
概略
生い立ち(前半)
- 1974出生
・福岡県遠賀郡にて出生
※現北九州市と宗像市の間
・父・母・姉の4人家族 - 1981小学校時代
・地元小学校でおとなしめな幼少期
・MSXを買ってもらい没頭する - 1987中学校時代
・地元中学校で地味な3年間
・バレーボール部所属(失敗その1) - 1990高校時代
・お引越し
・地元公立高校へ入学(失敗その2) - 1993大学時代
・地元私立大学へ進学
・アルバイトとゲーム三昧の毎日
・ギリギリで単位を取得し卒業、、、 - 1997就職難時代
・就職活動に失敗
・ゲームクリエイター養成スクールへ
・神戸で一人暮らし開始
・帰郷(失敗その3)
一人遊びを究める陰気な幼年時代
・無口で陰気な性格(今もあまり変わってない)
・一人で遊ぶことが多くブロックやミニカーがお気に入り
・友達は気の合う特定の少数
勉強も運動も得意ではなく、とりたてて主張することのない小学校生活でした。
ファミコンブームがやってきますが買ってもらえず。
代わりにHITACHIのMSXマシンを買ってもらいます。
周りのクラスメートが次々にファミコンを手にするのを尻目に、色数の乏しいMSXゲームをプレイする日々。
この頃からすでにマイナー指向の人格が形成されつつあったのでしょう。
MSXは本当に素晴らしいと思ってます。
高学年の頃にはBASICマガジンを片手にひたすらコーディングしていました。
反抗期真っ盛り!坊主が教則の中学時代
・MSX2を持つ同志(北川君)との出会い
・マイナー気質継続中
・音楽に興味を抱く
・部活動を始める(吹奏楽→バレーボール)
「サックス吹きてぇ!」(←チェッカーズの影響)との思いから入学と同時に吹奏楽部へ入部。
しかし、サックスパートは既に二年の男子先輩がゲットしていたため、入学ホヤホヤの一年坊が希望の楽器につける余地はなく、回ってきたのがチューバ。
でかいし重いし、何より見た目がイマイチ。色気づいてモテたい盛りの中一男子には受け入れがたいプロポーション。
そのせいもあり入部早々に幽霊部員と化し退部します。
他にやりたい部活があった訳でもなく、小学校時代から尊敬する同学年の師匠(川口君)が、バレーボール部に入部していたことから、自分もそこで体を鍛えることに。
しかしこのバレーボール部への入部が人生における失敗その1となります。
恐怖!田舎中学のビーバップ体験
・地元では名の知れたヤンキー中学
・バレー部で先輩にボコられる毎日
・坊主頭なのに色気づき始める
・バンドブーム到来!ギターを始める
私が当時通っていた中学校は、ちょっとおつむの弱い血の気の多い人間(いわゆる「ヤンキー」)が跋扈しているそんな学校でした。
上下関係は非常に厳しかったです。
目が合ったのに挨拶がないと、あとで体育館の裏に呼ばれ人生の不条理さを拳で語ってくれます。
体育系の部活動においてはさらに顕著に発揮されます。私は自らの意思で不幸(バレーボール部)に飛び込んでいたのでした。
声が出ていない、部室の掃除が行き届いていない、動きが遅いなど怒られる理由がある場合はもちろん、その日の気分によって鉄拳が飛んでくることも茶飯事でした。
学校生活において”先輩”とはまさに”神“と同意語であることを知った貴重な思春期を過ごせました。
この当時、心底死にたいと思った事は一度や二度ではなかったと思います。※今だから笑い話にも出来ますが、、、
そんな中学時代でしたがバレー部も途中投げ出すことなく3年になる頃には気の合う仲間と音楽(バンド)活動をはじめるようになりました。世の中バンドブームの真っ只中。
軍隊(のような)高校
・地獄の高校生活スタート!
・体育教師からの洗礼
・辞めときゃよかったクソ高校
中学卒業後、県立の高校へ進学しますがその選択も大きな誤りでした(失敗その2)。
受験で失敗したくない思いから、ボーダー下の学校を選択。楽勝で合格するものの、そこは軍隊と見紛うほどの超スパルタ学校。
(※ちなみに卒業生には俳優の野間口さんがいらっしゃいます。なんと一学年上の先輩でした)
入学早々のある帰り道。
制服(詰襟です)の第一ボタンを外し学帽も脱いだ状態で駅前に到着すると、そこに体育教師が待ち構えており、おもむろに呼び止められ格好について指摘するや否や、強烈な右平手打ちを喰らわせてきました。
驚いたとともに、正直訳が分かりませんでした。それから全てのボタンと制帽を取り上げ、「明日からはその格好で来い!!」との厳しい一言。
思えばこの時、勢いでそのまま辞めていれば全然違った人生を歩んだでしょう。
恐怖におののいた自分は許しを請いに学校へと引き返していったのでした。
大学進学、就職難、プログラミングスクールへ
・なんとなく大学進学
・アルバイトとゲーム漬けの堕落した毎日
・卒業危機から就活放棄
・からくも卒業するもゲームスクールへ
父親は中卒で製鉄関連の養成校上がりで、自分にはとにかく大学へ行くようにと言われて育ちました。
気合で3年間の軍隊(のような)高校を乗り切った自分は、推薦枠で地元私大へ進みます。
しかし厳しすぎた高校時代の反動から、大学の授業はほとんどサボるように。
アルバイトとプレステにどっぷり明け暮れる毎日。気づいた時には単位不足で卒業危機!
ギリギリで必須単位の目途が立ったものの、まともに就活なども行っていない状態でした。
ある時ゲーム雑誌をパラパラめくっているときのこと。(※←焦ってないのが致命的)
某老舗ゲームメーカーがクリエイター育成スクールを設立し第一期生を募集中との記事が目に留まります。それまでMSX以外のコンピュータ(いわゆるWindowsやMac)に全く触れたこともないPCド素人でしたが、ぜひチャレンジしたいと思いさっそく応募しました。
神戸で一人暮らし開始
・神戸で一人暮らし開始
・冴えない運営で伸び悩むスキル
・授業料と生活費で家計圧迫
スクールは特に難しい試験を受けることもなく面談だけで受かりました。神戸で開校だったため、大学卒業と同時に一人暮らしすることに。
一人での生活に当初は戸惑いもありましたが、同じマンションに他のスクール生も多く入居していたため(スクールが斡旋してくれたマンションだったので)、すぐに打ち解け愉快な共同生活が始まります。
しかし、このスクールがまた曲者でした。
設立初年度ということもあり、運営側もまったく準備が出来ていない状態での見切り発車。カリキュラムも全然組まれておらず、プログラム言語(C言語)のテキストを丸投げ。
入校した4月頭からGW過ぎ頃まで何もすることがない期間が続きました。
それでも一年間スクールへ通いそれなりの知識(PCスキルなど)は得られました。
一大決心
・突然の現場(OJT)投入
・スキル不足からくるプレッシャー
・家計への負担、現場の息苦しさから辞める決意
しかし同時に、学費や生活費で実家に負担をかけていたのを心苦しく思っていました。
そんな折、実力も伴っていないのに何故か開発部(現場)へ異動に。
結果、現場での実地研修についていけなくなり、それを機にスクールを辞める決意をします。
※本来スクールで2年間のコース受講後、成績と希望によって現場へ配属される流れ
神戸はとてもいい場所だったので離れるのはさみしかったですが、スクールを辞める以上留まる理由もなく、その後地元に引き揚げます。
この時、歯を食いしばってもうひと頑張りしていたら、今後の人生は大きく変わっただろうと思います(失敗その3)。
ここまでで大きな選択ミスが3つ。なかなかヘビーです。
※ここから先さらに長いです。どうでもいい話ばかりなので、続きの気になる方だけお進みください。
生い立ち(後半)
- 1998職探し
- 1998入社
・3か月のハロワ通い
・現職を見つけ就職(失敗その4)
・上京 - 1999社会人2年目
・2つ目の派遣先で今の奥さんと出会う
・ギャンブルにハマりだす - 2004結婚
・4年間の交際後結婚(失敗その5)
- 200?休職(1回目)
・精神的に追い込まれ休職
- 2006頃復帰
・復職(しばらく安定)
- 2009マンション購入
・千葉県内にマンション購入
- 2015息子誕生&休職(2回目)
・息子の誕生
・職場ストレスにより休職(2回目)
・心療内科+自立支援プログラム通いが始まる - 2015再復帰
・半年の休職期間を経て復職
- 2018ブログ開設
- 2021いまココ
・育児とWordPressとブログ集客Upに奮闘中
地元で職探し
・ハロワで職探し
・うまい言葉に乗せられ特定派遣業へ
・内定と同時に上京
・社会人2年目、奇跡の邂逅
地元に帰ってからは迷惑をかけた分、早めに仕事を探すべくハローワークへ通う日々が続きます。しかし、大学を卒業して既に一年経ち新卒採用枠ではありません。
スクールで学んだ内容も素人レベル。どんな仕事が自分に合うのか、どんな会社だったら入れるのか全くの未知数。
そんな状況で見つけたのが今の会社でした。2000年問題の直前ということもあり、IT業界は未経験の募集も数多くありました。
そんな折「勉強しながら経験を積もう」という触れ込みに魅せられて応募します。簡単なIQテストと面接を受けて即内定。直後に上京することになりました。(失敗その4)
せめて企業リサーチをもっとしておけばと良かったと思いますが、すでに後の祭り。
求人票にはいいように書かれてましたが、職種は特定派遣業。これがのちの不幸を呼ぶことに。
当時まさにITバブルで、巷にはいわゆる文系SEが溢れていました。こうした派遣文系SEがいろんな客先で慣れないシステム開発を請け負い、結果穴の多いシステムが数多く構築されていくことになります。
自分もそうした開発案件に多く携わってきました。(涙)
その後、入社2年目に飛ばされた客先で、幸か不幸かいまの奥さんと出会うことになります。
荒海にもまれて航路を誤る(なんか名言っぽい)
・ギャンブルにはまりだす
・消費者金融に手を出す
・自転車操業スタート
・幸先悪い結婚へのみちのり
社会人になり自分でお金を得られるようになりました。当時はまだ会社も多少潤っていたのでそこそこお給料はよく、残業も多かったのでそれなりの収入がありました。
その反面仕事のストレスが大きかったため、解消すべくギャンブルにのめり込むようになります。学生時代もパチンコや競馬(※本当は学生はダメですよ)に多少つぎ込むことはありました。
しかし、社会人になって自分で稼ぐようになると、つぎ込む額も自然と増えていき、結果抜け出せないほどはまってしまうように。
家系的にギャンブルにのめり込みやすい体質で、父親も祖父もとにかく賭け事が好きでした。子供の頃にはよく父親にパチンコ屋に連れて行かれたものでした。
遺伝するのかどうかは分かりませんが、脳内麻薬の出やすいタイプなんだと思います。
彼女とつきあっていたころも、隠れてギャンブル(パチンコ、競馬)をやり続けていました。
普通に考えてギャンブルでは稼げないというのは理解できると思います。
※勝つときもあるでしょうがやり続ければ100%負けるようにできてます
自分も頭の中でそれは理解していました。それでもやってしまうのが恐ろしいところです。
気が付くと給料はまるまる飲まれ、それでもいつか取り返せると思って消費者金融でお金を借りてまで打つ始末。
数社からの借り入れにより膨らみ過ぎた借金はもはや自身ではどうすることも出来なくなり、泣きついて親に肩代わりしてもらいました。ひどいドラ息子です。
返済後は必ず止めると誓いますが、またしばらくすると打ちたい衝動にかられます。
これがギャンブル依存というものです。
一度は清算したものの、同じ過ちを繰り返します。表立っては普通に彼女と付き合い続け、その間に再度借り入れをしていました。
そうして4年間付き合った後、結婚の話が持ち上がります。
が、借金のことがありにっちもさっちもいかなくなり全てを打ち明けます。借金は自分の給料(小遣い分)から返済することで許してもらいました。(失敗その5)。
精神面の弱さが浮き彫りに
・精神ダメージがMAXに
・消極的、逃げ癖の人生
・1回目の休職へ
結婚後、しばらくは平穏な日々が続きました(もちろん借金は返済しながら)。
しかし、何度目かの現場で精神的に追い込まれ、あるとき突然会社に行けなくなってしまいました。
新しい環境に慣れず、作業量も増加し上役の人からは常時責められ続け、心身ともにボロボロ状態。
心療内科で”うつ状態“であると告げられます。
結果、会社と相談して休職(第一回)することに。
数か月、心療内科へ通いながら回復への道を歩みます。
※思えばこのときに人生設計を見直しておけばよかったかもしれません
休職したっていい
復職後のあゆみ
徐々に気力と体力も回復してきて、休職から半年して無事復職が決まりました。
会社に迷惑をかけた分を取り戻そうとまたコツコツと仕事に精をだします。
それからしばらくは派遣先にも恵まれ比較的順調な生活が続きます。
数年経ったある時、住まいを買おうかという話が持ち上がりました。
そこで問題になってくるのが、過去の信用情報。
自分の場合消費者金融からの借り入れや、休職期間がありその原因が精神疾患(“うつ状態”)であることがネックになり、ローンが組めないのではないかと心配していました。
ところが、借金も完済していてすでに数年経過しているのと、復職後数年しごとが出来ていることから特に問題なく住宅ローンは組むことができました。
これはありがたかったです。
脱ギャンブル依存へむけて
しかしちょうどその前後、またしても悪癖が頭をもたげてきます。
少しでも嫌な事があると、すぐにギャンブルに走ってしまう逃げ癖体質。
借金こそしないものの少ない小遣いからなんとか増やそうと無駄なあがきをします。
それも長く続かず、あるときタバコのニオイがもとでバレてしまいました。
付き合い始めの頃は私もタバコを吸っていたのですが、この時にはすでにやめていたのでパチンコ屋でもらってきたタバコのニオイが服にしみついていたのです。
それから夫婦で話し合い、ギャンブル依存症者の為の自助グループがあることを聞きました。
GA(ギャンブラーズ・アノニマス)というグループです。
ギャンブル依存症の人が集まってそれぞれ匿名(アノニマス)で自身の体験などを話し、周りはだまってそれを聴くという会です。
よく、外国映画などでアルコール依存症の人たちが円環状でドーナツとコーヒーを持って話す姿など見かけるかと思いますが、あれのギャンブル版です。
さっそく近場の会場を見つけて、そこへ通うようにしました。
ギャンブル依存は治りません
通いだした当初は、自分がギャンブル依存だとは思っていませんでした。
いつもで自分の意志で辞められるんだと、そう思っていました。
しかしGAでそれは間違いだと教わりました。
ギャンブル依存は病気であり、タチの悪いことに完治しないものだと。
ただ、対処法があることも教えてもらいました。
「今日一日やらない」を続けていくことだと。
GAに行くと最初に小冊子をもらいます。
それに書かれています。
・自分が病気だということを認めること。
・今日一日(ギャンブルを)やらないこと。
それからは週一ペースで3年間GAに通い続けました。
色んな人の話を聞き、自分も話をすることでスッと晴れやかな気持ちになれるのを実感しました。
幸福なことに、それからは「今日一日」やらない日々が続いています。
晴れてマンション購入
住宅ローンも無事に通り、念願のマンション購入!
挫折続きの人生でもなんとかなるもんだと思いました。(ローン返済が大変ですが、、)
それからまたしばらくは安定した日々が続きます。
2度目の休職
それでも自分の性格や性質というのは簡単には変え難いもの。
現場が変わったタイミングでまたしても精神的に追い込まれる事態になり、段々と職場恐怖へ陥ってしまいました。
一度そうなってしまうと、なかなか自分だけの力では回復できず、結局また仕事に行けない状態に。
しかもその頃ちょうど妻のお腹の中には新しい生命が宿っていました。
結局、出産と同じ時期に2度目の休職期間へ入ることになります。
それでも再復帰できました
子供の世話もまた楽しからずや
休職後また心療内科に通う日々。合わせて自立支援グループの会にも参加することにしました。
ここでは復職へ向けた準備やメンタルケアを実施していました。
加えて、家では子供の世話がまっています。オムツ替えやミルク作って飲ませたり、お風呂や寝かしつけ。
子供の世話の方が大変なのでした。
でも今考えるとちょうどよかったのかも知れません。育児休暇などは元々とれなそうな会社。
赤ん坊の世話が出来る時期に家に居られるのは逆に幸せだったと思います。
そんな生活が半年ほど続き、再度復帰の段取りが整ってきました。
2度目の復帰
2回も休職するとさすがに復職するのがちょっと怖くなります。
前のように仕事をこなせるかとか、周りの人からの目が気になったり。
それでもとにかく社会へ出なくてはいけません。
幸いなことに復職後初の現場は、自社の同僚も居てスムーズに復帰ができました。
自立支援グループでのメンタルトレーニングも効いていたと思います。
息苦しい会社勤め
復職してから今に至りますが、やっぱり会社勤めは息苦しい。
何より、現場が変わる度にあらたな環境に対応しないといけないのはかなりのストレスです。
その点で就職時の選択ミス(失敗その4です)が致命的でした。
この歳での再就職はもはや絶望的。
色々と無駄な知恵を絞り、何とかブログで稼げないかと模索を始めたところです。
選択ミスの多い人生
あの時こうしておけばよかったなぁと思うのは誰しも経験があるかと思います。
自分も多くの選択ミスをしてきました(計5回)。こまかいのを入れるともっと多いですが。
でもその積み重ねが今の自分を形作っているので、それを嘆いても仕方ありません。
その経験がプラスに働いている面も少なからずあるはずです。
以上は多くの失敗談を含む自身の半生記です。
今となっては笑って済ませられる話もあります。
中にはずっと引きずって今でもこじらせている事案もあったりしますが、なんとか前向きに生きていこうと思います。
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